輸出車の船積み以外のバイトも経験しました。大きな収入
源は”家庭教師”です。
最初は家庭教師の派遣会社に登録して始めることになりま
した。1回2時間5,000円で月8回、40,000円は貧乏学生に
とっては大きかったです。場所は車で1時間はかかる四街
道という遠隔地。なので、営業利益としては、ガソリン代
という経費を差し引き利益も考える必要がありました。
1980年(昭和55年)のガソリン価格は、前年より
30円も上昇、平均で150円/ℓでした。
生徒は小学5年生の男の子。お世辞にも頭脳明晰とは言え
ませんでした、その分教えがいもあり、伸びしろもありま
した。
そのため、素人の家庭教師カワシューの教え方でも、成績
がメキメキ上がり、本人のモチベーションも上がっていき
ました。両親にも喜ばれ、オヤジさんから
「先生、一杯飲んでいきなよ」とビールを勧められました
が「車じゃなかったら、頂きたいところなんですがね」と
やんわり。しかし次の機会もオヤジさんから同じセリフ。
授業が終わるのが夜の8時過ぎと言うこともあり、その頃
はオヤジさんは結構、出来上がっていたので、それの繰り
返しだったのを覚えています。
結局、缶ビールやらウヰスキーやら、お菓子やらいろいろ
とお土産もらっていました。
そのうち、オヤジさんから「家庭教師の派遣会社を辞め
て、個人契約にして弟も教えてやってほしい、1回当たり
7,000円でどうだ」と頼まれ金に目がくらみ、承諾してし
まいました。
そのオヤジさん。日に焼けたガッチリした体型で、豪快
な人でした。「俺はさ、勉強できなかったけど、こいつら
(息子たち)は人並みに勉強できてほしんだ」といつも
ほろ酔い。
職業はわかりませんでしたが、建築関係のお仕事だったの
かもしれません。
今思えば、バブリーな時代の象徴みたいなオヤジさん。
どうしてるかな・・・
Yes!カワシュー・Vol2 ~家庭教師のカワシュー~
